土曜日, 12月 22, 2012

[映画]レ・ミゼラブル(Les Misérables)

どうしよう、もう1回観たい。大作映画でこんな気持ちになったのはこれが初めてだ。

正直、ミュージカル映画はあんまり好きでない。「ウエストサイドストーリー」「サウンド・オブ・ミュージック」など、ひとつの世界観として完璧に作りこまれているものならともかく、やっぱりいきなり登場人物が歌いだすことに抵抗を感じてしまう。役者たちの表現も限られてくるので、ストーリーも大味になりがちだ。
だもんで、観始めてやっぱりウッとなった。冒頭の看守と囚人の会話からしてすでに歌ってるんだもん。あと序盤の映像も(後でかなり頑張ってセットも作ってたってわかったけど)わりとザ・CGっぽく、これは壮大なファンタジーと思ったほうがよいのかなー、なんて心の準備をしてしまった。

しかし。そういう定型的な思い込みとか、皮肉めいた観点とかは簡単にふっ飛ばされた。主人公ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)のソロ、「Valjean’s Soliloquy(独白)」で。囚人として生きてきた自分の過去を文字通り破り捨て、新しい自分として生きてくことを決意する歌なんだけど、彼の気持ちのようなものが、ヒューの歌唱力、迫力あるカメラワーク、そして生で歌っていることによってぐいぐいと伝わってくる。
ここではじめて、「ああ、これすごい映画なのかもしれない」と感じた。

そんでもって数年後、バルジャンが出世して市長になり、街工場で働いてた貧乏なファンテーヌ(アン・ハサウェイ)をうっかりクビにしてしまう。そのせいでファンテーヌは病気の子どもにお金を送れなくなり、絶望的な状況で体を売る。その直後に、有名な「I Dreamed a Dream(夢やぶれて)」のシーンがある。すごかった。
恋をして幸せだった若いころ、対してひどく落ちぶれてしまった悲しみ、どうにもならない世の中や人生に対する怒り、そして諦め。そういった気持ちや感情が、フレーズごとにきっちりのせられて、ノンストップで、アップで、こっちまっすぐ来るんだよ!これわたし観てていいのって感じになる。人の心の底からの絶望みたいなのを見せつけられて、泣くっつーか直球ドストレートで涙がびゅっと出る感じだった。

わたしはここでもう満足しちゃったんだけど、このシーンは第一部のヤマ場で、第二部、第三部もそれぞれ見所がたくさんある。バルジャンを追い続ける、看守から警部になったジャベール(ラッセル・クロウ)の「Stars(星よ)」とかすごい重厚な雰囲気で、ふだんアクションやってるオッサンの歌声にびびるし、ファンテーヌの娘のコゼット(アマンダ・セイフライド)に一目惚れするマリウス(エディ・レッドメイン)にずっと片思いしているエポニーヌ(サマンサ・バークス)の「On My Own(オン・マイ・オウン)」とかは、かなわない恋をしたことがある人には本当に刺さるんじゃないだろうか。人生における「どうにもならないこと」へぶつけていく感情というのがそのまま来て、観てる側の気持ちにのっかってくるんだよね。

もちろんラストへの盛り上がりもきっちり計算されている。若干バルジャンの無敵っぷりが気になるもののそこは19世紀の物語だからということで目をつぶって、バルジャンのラスト「Epilogue(エピローグ)」はこの映画のテーマを明確に理解させてくれる、とても悲しく、そしてとても素敵なシーンだし、大群衆の「The People’s Song -reprise(民衆の歌―リプライズ)」でのラストシーンはこういった映画に不可欠のカタルシスをしっかりもたらしてくれる。

なんというか、歌うことによって感情をストレートにぶつけられる、というのが、こんなに観る側の気持ちを揺さぶってくるとは思わなかった。それは非常に実力のある役者を集められたことや、生歌を提案した監督トム・フーパーのおかげでもあるし、豪華なスタッフを集められたことも大きい。
つまり、なかなかどうして簡単に実現しえない映画なわけで、別に爆泣きでもまったく泣かなくてもいいけど、ひとつの到達点として、この冬映画館で目撃してもいいレベルの映画だと思う。

公式サイト:映画『レ・ミゼラブル』公式サイト

火曜日, 11月 13, 2012

[映画]現金に体を張れ(The Killing)

1956年のスタンリー・キューブリック監督作品である。強盗一味の強盗計画・実行・その後を時系列を入れ替えて淡々と撮ってく映画であり、モノクロなのもあって後期の強烈なキューブリック作品と比べると地味さは否めない。しかし、クエンティン・タランティーノがこの映画に影響を受けて「レザボア・ドッグス」を作ったことからもわかるように、淡々としてるわりに観終わったあとの「ムッハー!」感がなかなか半端なかった。

正直に言うと、序盤はやや退屈である。競馬場での現金強奪計画について、ジョニー(スターリング・ヘイドン)を中心として関わるメンバーとその背景が紹介されるのだが、人数が多いゆえあまり深堀りできずさらっとしていて目が滑ってしまうし、おっさんたちは全部同じ顔に見えるしで(これはわたしが悪い)、後半盛り上がりそうだから前半はこんなもんかね、という感じだ。
ただ絵に描いたような性悪女が出てきて、そいつが文字通り男だらけの世界に華を添えていていいスパイスみたいになっていた。もうほんとにわかりやすく性悪なのでしまいにおもしろくなるレベルである。

んで後半は怒涛の展開である。競馬場の現金強奪の実行シーンも時系列を少し入れ替えつつやるのだが、ここもところどころもたつくものの、お約束どおりハラハラさせてくれる(そ、そこそんなチンタラしてると警察きちゃうよー!的な意味で)。また現役プロレスラー俳優の暴れシーンは必見。ひとりだけ真面目に技をかけているのでどこか哀愁が漂うレベルでおかしい。
そこから、強盗したあとが書かれるんだが、余計なことは言わずもがな、拳銃の音がしたと思ったら血まみれの男たちがぶっ倒れていたりして、一瞬にして観客は事態を悟ることになる。そういうたたみ掛けがテンポを上げて続く。そしてラストシーンへの流れは秀逸のひとこと。札束がどーん!となるシーンは、来るぞ来るぞとわかるんだけど、わかっててもすごい笑ってしまう。画(え)の破壊力が想像を超えるんである。そしてラストシーンはまさに「ジ・エンド」でびしっとしめられ、クールというほかない。

思うに、ファンならずとも、すぐに人が死んじゃう昨今のギャング映画の原点としても、この映画を楽しむことができるんじゃないだろうか。半世紀前から映画内のギャングたちはこうやって死んでたのかな、とか。
個人的には、ところどころ出てくる動物に重要な意味を持たせてくるあたりがキューブリックらしくてかわいいらしいなと唸った。

木曜日, 11月 8, 2012

[映画]「17歳の肖像」(An Education)

キャリー・マリガン版「マイ・フェア・レディ」「プリティ・ウーマン」だと思って観たけど、全然違った・・・!むしろ「ゴースト・ワールド」に次ぐ痛い系青春映画だった。

要は秀才美少女16歳ジェニー(キャリー・マリガン)が、おっさんのデイヴィッド(ピーター・サースガード)と出会って、いろんな意味での人生勉強をしていく話である。どっかで恋愛映画として挙げられていたが、これは純粋なる青春映画だ。つまり、観ていて自分の若い頃を思い出してあいたたたた、となるようなやつだ。ジェニーが地元のシケた喫茶店で、友人とカミュの実存主義について煙草をふかしながら語るところとか、すっぱい気持ちになった方は多いのではないだろうか(特に元文化系痛女子はクリティカルヒットすると思う)。

この映画の秀逸さは、ちょっとした「違和感」を大事にしているところだ。ふたりの出会いのシーン、ジェニーは学校帰りに楽器を抱えてずぶ濡れで道端に立ってる(ここも何かおかしい)。そして車に乗ったデイヴィッドに声をかけられて、ちょっとふふっとするんだよね。あれ?って思って、実はそういったものを彼女は「待っていた」ということが次第にわかる。
そして超紳士的で上流階級のヒトっぽいデイヴィッドも、なんかうまくできすぎててあれ?ってだんだんなってくる。でも中流の申し子みたいなジェニーのご両親も、ジェニーも、おかしいと思いつつ、作られた流れに乗ってしまう。でもそのひっかかりが、実は正しかったのだと、後でわかる。

また、いろいろ破綻した後どうなったかを真正面から描いていたのもよかった。やっぱりやり直しのきかないものはやり直せないし、お父ちゃんは泣いて謝るし、「勉強ばかりのつまらない人生」の典型みたいな堅物女教師の、意外なぐらいの豊かな世界が見える部屋など、夢から覚めたあとのジェニーが気づく、彼女がこれから向かうべき現実についての容赦なさと可能性のようなものを同時に提示することは、なかなかできることではないと思う。
なので起こったことのわりに、観終わってもそんなにいやな感じがしない。逃げないということは大切なんだな。

少し残念だったのは、1960年代という背景があんまり実感できない絵作りだったこと。少しクラシックな現代の話といわれても信じそうなスタイリッシュな画面だった。この物語の背景にある、階級社会への皮肉と女性の進学・社会進出についてを描くには必須の舞台設定なんだろうけど。
それにしても顔を少ししかめただけでなに考えてるかほぼわかるキャリー・マリガンがすごすぎる。そして口をゆがめる感じの笑い方が可愛すぎて毎回鼻血が出そうだった。

金曜日, 11月 2, 2012

[映画]愛より強く(Gegen die Wand / HEAD-ON)

うっかりしていたらついていけてなかったので、自分の感性がもうだめなのかもしれない。ぐぬぬ。

監督はトルコ系ドイツ人のファティ・アキンさんである。このヒトの撮った「ソウル・キッチン」がわりとよくできてたのと、そのコメンタリーで「これはコメディを狙って作って狙って売った、いつもの自分の映画とは違う」みたいなことを言っていたので、その「いつもの」が気になってベルリン映画祭金熊賞を受賞しているこっちも観てみたのである。
しかしこの映画、そうでなければ絶対手に取らないセンスのジャケだ。なんかハードエロっぽいしタイトルもそんな感じでもったいない。わりと内容は真剣に愛とはなんぞやを問うているんだけども。

偽装結婚の話だ。最愛の妻を失って酒とドラッグに溺れるジャイト(ビロル・ユーネル)に、トルコ系の固い家族が嫌で今すぐ結婚して家を出たいシベル(シベル・ケキリ)とが出会っていきなり結婚して、偽装だからってんでそれぞれ好きなことやって(他の男や女と寝たり)、でもお互い相手のことが好きなんだけど素直になれずに悲劇が起きる、みたいな。

しかし、あんなに真剣に愛しあうのって、一緒に住んでてお互いの孤独がよくわかったからなのかな?自分にはどうも偽装結婚から本当に相手のことを好きになるまでの転換みたいなのが見えなかった。実際の男女はそういうもんなのかもしれんけど、そこはふたりならではのエピソードをもう少し入れるなりして映画的に見たかったな。また、ジャイトが隠していた過去である「みんなに人気があって、画家だった」元妻というのもよく見えてこないし、ジャイトのドイツにひとり住んでる姉というのも放ったまんまだし、いろんな物語を構成する要素が、あるひとつの流れのためにあらかじめ準備されている感じがして、すこし不自然に感じた。

ラスト付近のイスタンブールの夕景、刑務所を出たジャイトと友人マレンの交流、シークエンスの合間にはさまれるトルコの楽団の音楽など、その流れのつなぎ方や描かれていた画はよかったと思う。特にファティ・アキンの映画は物語の展開が詰まった時の打破っぷりが鮮やかでわりと好きだ。
でもなあ。愛より強いものって、結局いったいなんだったんだろ?家族とかふるさとなのかな。しかしそれも愛の一種であり、シベルがあんだけ忌み嫌ってた鎖につながりうるんだよなあ。「君が世界を変えられないなら、君の世界を変えれば良い」というこの映画のテーマっぽい序盤の台詞があって、確かにそうなんだけど、この物語においては実は何も変わってないんじゃねーのかという気がしてならなかった。なんか見落としてるだけかも。そしたらごめん。

火曜日, 10月 23, 2012

[映画]恋愛映画ベストなんとか

現実逃避するためにコテコテの恋愛映画を観たら、非現実的なストーリーと対照的な自分の現実を逆に突きつけられて、オエーとなったりする。
意外と恋愛映画って、よっぽど有名なやつでない限り、「ちょうどいいやつ」を選ぶのが難しかったりするんだよなーと思っていたら、映画.comの恋愛映画ベスト100、という記事を見つけた。

映画.com マガジン 9月号~もの思う秋、人恋しくなる秋だからこそ浸りたい~ 映画.comセレクション 『最新イチオシ恋愛映画』&『恋愛映画ベスト100』
http://eiga.com/magazine/1209/

このベスト100、映画.comの独断と偏見だそうだけど、わりと王道でオーソドックスなんで、あまり観てないなりに自分でも恋愛映画ベストなんとかを考えてみた。われながら全然参考にならないリストになった。
※リンク先はTSUTAYAの作品紹介ページです

1. 友人に勧めるなら系

2. わかりたくないけど恋愛はこういうもんかも系

3. 個人的に恋愛映画ならこれ系

  • バッファロー’66
    全く突拍子のない、むしろ暴力的な話なんだけど超恋愛映画なんだよなあ。なんだろうこれ。
  • トランシルヴァニア
    恋愛というかただのロードムービーだけどこの荒さが救いようがなくて好みにジャストミートした。
  • 耳をすませば
    なんだかんだで結局これに戻る。

そんでもって恋愛についての名シーンというなら、自分は 「男はつらいよ 寅次郎 紅の花」の1シーンを挙げたい。
沖縄のビーチで、寅さんとマドンナのリリーが、寅さんの甥である満男(吉岡秀隆)の一世一代の告白を眺めているところだ。ずっと好きだったけどすれ違ってばかりだった泉(後藤久美子)に満男がついに想いのたけをブチまけるんだけど、この時の満男がほんとにださいの。

泉「何であんな事したの!?
  黙ってないで何とか言ってよ!」
満男「それはね…」
満男「愛してるからだよ!!」
(満男波打ち際でひっくり返って水飲んでゲボゲボとか言う)
(少し離れたところで寅とリリーがふたりを見ている)
寅「あーあー、ぶざまだねえ、あの男は何とかなんないのかねぇ」
リリー「いいじゃないかぶざまで。若いんだもの。私たちとは違うのよ」

このだささがすごいリアルで、見ててすごい恥ずかしくなるんだけど、ヘタな恋愛映画よりすごく真実をついている気がして、どこかほっとしてしまうんである。

月曜日, 10月 15, 2012

[映画]家族

1970年制作、山田洋次監督の映画である。乳飲み子含む家族5人で、長崎から北海道中標津まで鉄道で移動するという、無謀すぎる映画があるというので観た。確かにシャレになってなかった。

長崎伊王島でささやかに暮らしていた風見一家、しかしおとーちゃんの精一(井川比佐志)が失職を機に北海道中標津の開拓村に移住すると言い出して、嫁の民子(倍賞千恵子)、5歳ぐらいの息子、赤ん坊の娘、じいさんと5人で鉄道を乗り継いで北を目指す。
…だけならただのうきうきファミリー鉄道旅♪になるのだけど、もちろんそううまくはいかず、じいさんを預ける予定だった広島県福山のおじさんには「ウチは狭いし生活苦しいし(ぶっちゃけむり)」みたいなこと言われて泣かれるし、大阪では絶賛開催中の万博の熱気にあてられるし、東京では山手線の殺人的帰宅ラッシュにまきこまれるしでもう散々なのだ。そして追い討ちをかけるようにして、一家には決定的な悲劇が発生してしまう。そのせいで、オープニングであんなにつやつや輝いていた民子の顔色が、後半ずっとどす黒い。

どだい無理な話なのである。要はおとーちゃんのワガママなのだ。人生やり直し的な男のロマンを胸に秘めて移住を決意するけど、巻き込まれる家族側はたまったもんじゃない。気候も全く違うし酪農なんかやったことないし、そもそも貧乏だから移動すら大変だ。
そう、傍から観てると「なんでこんなどうしようもないとーちゃんの言うこと聞いてんだよ、もう無理じゃんこれやめようよ」ってシーンが何度もでてくる。すげーきつい。なんでかっていうと、彼らが逃げられないことを知っているからだ。どんなにひどい状況でも、民子やじいさんやこどもたちはとーちゃんについていくしかない。引き返すことも、やめることもできない。家族だから。

もしかしたら現代では女性の選択肢も増えたし、こういう男はもうずいぶん減ってきてるのではないかと思う。1970年代の高度経済成長期と今では状況も違うだろう。
しかし、この無謀な行程そのものがいわゆる「家族」を象徴しているような気がしてならなかった。
映画の中で、風見一家はカトリックを信仰しているというのがけっこう重要な要素になっていて、キリスト教をモチーフにした画がいくつか出てくる。それを見ていてなんとなく、教会で結婚式を挙げたときに新郎新婦が誓う、次の文句を思い出した。
「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」
それはとても素敵な誓いであると同時に、重い鎖でもあるのかもしれない。

ラストでは初夏のさわやかな根釧平原の緑とともに、人々の笑顔がはじける。そう、きついことだけじゃなくて、新しく生まれるものもたくさんある。そういうのを毎日、毎年繰り返して、年輪のようにきっと家族というのはできあがるのではないか。
という一見ハッピーエンドに終わるけど、まあその答はひとそれぞれだろう。家族にトラウマ持ってるともれなく鬱映画になるだろうし、特にそういうのなければきちんと腑に落ちてくれると思う。

でも1970年における多様な鉄道の風景(山陽本線のキハ58、開通したての東海道新幹線、山手線、東北本線、満員の根室本線、幻の標津線)、大阪万博のリアルな熱気、高度経済成長期の光と闇と人々の生活(車のローンに20年…)、そういうものだけでも観ごたえがある。すっごい変わってるところと、ぜんぜん変わってないところと。あとチョイ役の渥美清がかわいい。

家族 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD15261/index.html

火曜日, 10月 2, 2012

[映画]ライク・サムワン・イン・ラブ(Like someone in love)

観ながら気持ちよく寝ることのできる映画をあげろと言われたら、わたしはイランの映画監督、アッバス・キアロスタミの「そして人生はつづく」を推薦する。イランの乾いた大地と小さな街、木々や風がざわめいているのを遠くから眺めているあの感じがうとうとするのにちょうどよいのだ。その監督が、日本で映画を撮ったというので、どひゃーってなってラブホ街の中にある渋谷ユーロスペースに観にいった。

で、どういう話かというと、女子大学生の明子(高梨臨)がデートクラブのバイトで84歳の元大学教授タカシ(奥野匡)のおうちに行き、一晩を過ごす。翌朝タカシが明子を大学に送ると明子の婚約者のバイオレンス男ノリアキ(加瀬亮)がいて、ノリアキがタカシを明子のおじいちゃんと勘違いしてへいこらするんだけど…という話だ。あらすじだけ追うと何がおもしろいかさっぱりわかんないね。

なので案の定、序盤はまた眠くなった。とにかくこの監督は、役者に「脚本を読ます」ことをしないので、会話がふつうの人みたいにえんえんたんたんと続く。そして基本的に長回しの1テイクをつないで物語を構成するので、観客はするするする、と流れる河のように物語を目撃することになるのだ。うっかりすると、置いていかれる。

しかし徐々に物語の骨格がつかめてくると寝ている場合ではなくなり、ラストは確かに前宣伝どおりの「衝撃」であった。あまりにも衝撃すぎて笑い出しそうになってこらえてぷるぷるしてしまった。同時にこの監督のすごさがわかってまたぶるぶるとする。これ、さりげなさを装って、ものすごく周到に作りこんでる映画なんだな。
どこがかというと、ちょっと離れた位置から目の前の物語を眺めていたはずの自分が、いつのまにか枠(フレーム)から向こうを覗き込む観客になっており、最後には登場人物と一緒に覗き込んでいる、ということである。そのフレームによって分割される「見る側/見られる側」という立場について、あるいはその破綻について、実に鮮やかかつ伝統的な方法で観てる側にぱっと明示してくるのだ。だから、注意して観てると、この映画の中にフレーム的な構図がよく入り込んでいることに気がつくはずだ。
第50回カンヌ国際映画祭のパルムドールを取った同監督の「桜桃の味」もそうだったけど、キアロスタミは観客に「自分は観客なのだった」と我にかえらすことで、対照的にその映画そのものを浮き立たせることを意図しているように思う。今回もそれがすごくよく効いている。

しかしさ、イランの砂漠からやってきて、来日した際に六本木で道端に立ってるキャバ嬢見てこの映画を着想するとか(※映画パンフの監督インタビューより)すごすぎる。何がすごいのかって、日本とイラン、価値感も文化もまったく違うのに、この映画に描かれている登場人物たちに相当なリアリティがあることだ。若い女性の危なっかしさずるさや、薄皮いちまい剥いだとこにある暴力や狂気とか、きれいに抽象化されて登場人物となっているので、実際には自分と縁のない世界にいるはずの彼ら彼女らに、自分の見ているものを重ねざるを得ない。

キアロスタミ、これからどこ行くのかな。もうしばらく追ってみたくなった。観る人を選ぶ映画監督であり、自分も完全に理解しきれたとは言いがたいけど、この人の新作をロードショーで観ることができてうれしいと心から思った。
あと加瀬亮がまた嫌な役がうまくて存在感すごくてうおぉ、となるよ。

映画『ライク・サムワン・イン・ラブ』公式サイト / Like someone in love Official WEB

火曜日, 9月 25, 2012

[映画]るろうに剣心 (Rurouni Kenshin)

邦画における漫画原作映画も、ひとつ山を越えたのかなー、というぐらい、単純によくできてた。

ご存知、週刊少年ジャンプで1990年代後半に大人気連載していた、「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」を佐藤健主演で映画化したものだ。当時はいたいけな10代だったわたしも原作・アニメ共にずいぶん夢中になったものだ。20代後半ホイホイ映画、といっても差し支えないであろう。
しかしながら、観にいく前はぜんっぜん期待していなかった。だって、幕末から明治にかけての日本という舞台設定、「…おろ?」とか口走るような優男の主人公が、敵を目の前にしていきなり目が鋭くなって「ひてんみつるぎりゅうナントカカントカ!」とか言って必殺技を繰り出し敵をばっさばっさ倒していく、というファンタジーじみた設定の物語である。どうしてこれをマトモに実写化できると思うだろうか。

しかし、期待はいい意味で裏切られる。まず、アクションがガチだ。剣心を演じる佐藤健をはじめ、脇役・敵役もきっちり殺陣をこなす。ワイヤーアクションこそところどころ物理の法則を無視した動きを見せるが、CGにもほぼ頼らず、スピード感あるカット割を多用しているので観てて小気味がよい。
そして、原作にかなり忠実な(時によってはけっこう恥ずかしい)せりふをしゃべらせる割に、物語にあまり無理がない。むしろ、原作では段階的に現れる敵役をここではあらためて整理し、クライマックスまでの流れをつくりあげることで、この映画化にあたりひとつの思想を貫くことができている。

それはつまり、「自分の持つ武器・技術(剣心なら剣術、恵なら薬の知識など)を、いかに使っていくか」ということである。それは使いようによっては人を殺し、逆に人を活かす。幕末から明治への時代の大きな変化の中で、倫理感やその「力」の持つ意味も変わり、利用するものされるもの、絶望するもの希望を託すもの、そういった交錯が剣心を軸にして展開する。
剣心自身もまた迷い、敵にそこを突かれてブレまくる。その流れがクライマックスにつながるわけだけど、一歩間違えばギャグになるあの難しいシーンを、妥協なく撮りきってるのがとても良かった。思わずぐっと来ちゃった。

もちろん単体の映画として観れば、気になる箇所はいくつかある。左之助や恵や弥彦の登場や仲間になる感じはかなり唐突だし、演出はやっぱりくどすぎる(回想シーンで風も大して吹いてないのに桜が散りまくるとかおかしいだろどう考えても)。
ただ、原作のテーマや雰囲気を生かしつつ、映画化にあたっての製作者の思想もきちんと貫くというのはおそらくとても難しいことのはずで、この監督はそれに挑戦し、エンタメとして楽しめるレベルに持っていくことができているという点で、この映画は成功していると思う。

あと佐藤健が異常に格好良いので(すごい再現性だった)、元祖ギャップ萌えを目撃したい方は間違いなく観るべき。

映画『るろうに剣心』公式サイト

金曜日, 9月 21, 2012

[映画]バグダットカフェ 完全版 (Out of Rosenheim)

たとえば友達だと思っていたのはずっと自分だけだったのかも、とか、そういうヘビーな現実から全部逃げてとにかく遠くへ行っちまいたくなるような夜は、これを観ることにしている。

ストーリー自体は単純だ。アメリカ、ラスベガス近辺の幹線道路沿いの砂漠の中にある小さなほこりっぽいモーテル、バグダットカフェ。黒人夫婦が経営しているが、旦那のとろさや仕事の忙しさにイラついたおかみのブレンダは、旦那を激しく責めたてて追い出してしまう(おかげで序盤はキーキーとうるさい)。そこへこれまた旅行中に夫と喧嘩別れして車を降りたドイツ人の太っちょ女性、ジャスミンがテクテクとカフェに迷い込む。未知との遭遇である。相互の無理解があり、衝突がある。そこから物語が始まる。

冒頭でだいたいこの映画のテーマが語られているのは見事だ。孤立したカフェ、家族ではないけどなんとなく時間を共にする人々、その出入り。カフェのくせにコーヒーがないと店員から聞いた客の男は、自ら用意してあったコーヒー粉を吸ってセルフでコーヒーを「楽しむ」(そしてでっかいくしゃみをする)。
また、一芸の大事さ、というかそばにいる誰かに自分が提供できるものがあることの大切さというのも、きちんと描かれている。招かれざる不審なおばさんだったジャスミンも、”魔法”を使えるようになって初めてカフェの一員となることができる。血のつながりや国籍や身分ではなく、そういったスキルを共有することで他人と繋がることができる、というのは、この映画の作成された1987年から現代にかけても、ずっと変わることのない事実なのだろう。

そして、この映画の傑作たるゆえんは、全体を通して貫かれている圧倒的な孤独感だ。ふつうに素敵なエンディングなのに、観終わったあと、どうしようもなく悲しい(もちろんほこりっぽいけど鮮やかな画作りと、主題歌「Calling You」もとても効いている)。
ちっこいバグダッドカフェの中で人々が出会ったり別れたりしている様子が、その砂漠の中のポッツーンとした感じが、地球の置かれている広大な宇宙空間を想起させるからだろうか。日々わたしたちが人を好きになったり嫌われたりわあわあやってるのは、とても小さな世界の中のできごとで、その外側には自分たちが全く関与しえない広大な空間がただ広がっているだけなんだ、と身震いするような淋しさを想起させるのだ。
だからとても心細くなるのだけど、逆にその絶望のようなものが希望にもなりうるのではないか、という問いかけを残してこの映画は終わる。答はわかりやすくは提示されていないから、自分で見つけるしかないけど。

月曜日, 4月 2, 2012

[旅行]Japanese Variety Hokuriku (2)

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2日目の朝。死んだように眠って起きたら寝坊である。サービスの朝ごはんを食べ逃し、あわててチェックアウトして外へ。


ホテル近くのバス停でバスを待っていると、おばあちゃん2人に「どこへ行くのか」と話しかけられた。市内をまわるつもりだったので、気比神宮です、というとにこにこしてこのバスに乗れ、という。親切がありがたくてへらへらしていたら、道路の向こうにいた太めのコーギー犬がこっちをじっと見ていた。


気比神宮である。神宮の正面には国道8号が通る巨大な交差点があり、この地が古くから交通の要所であることをほのめかす。参道わきには松尾芭蕉の銅像が立っていた。彼とは旅の先々であまりに遭遇率が高いため、いつも先を越されているようでおもしろくない。なにが「月清し 遊行のもてる 砂の上」なんだぜ。ふん。


境内はこぢんまりとした静かな神宮なんだけど、歴史はとても深く、日本書紀にその記述が残る。「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」とされ、朝廷に食べ物をささげていたことから食物の神を奉っていたのだけど、海陸の交通の要所だったこともあり、大陸に渡る交通安全の祈願の地とされていたりもした。(※一部wikiより引用)
・・・というようなことを、境内からどこからともなく現れた地元のおっちゃんが熱心に解説してくれた。なんというか一生懸命で、通りすがりの観光客にいちいち説明してしまうほど、この地のことを誇りに思っているんだろうなあとすこしうらやましくなった。


敦賀は1970年代に最初の原発を誘致している。道路はきれいに整備され、原燃の看板が市内にたくさんあり、2kmにわたって屋根がついているアーケードがある。原発の存在と街の発展が共にあったことが感じられる。
でも人が少なくて、アーケードは不気味なぐらいガラガラで、福島で原発事故が起きてしまった今、ここに住むというのはどういうことなのだろう、とどうしても考えてしまう。でも、あのおっちゃんを見ていたら、原発も含めて街の歴史であり、そこにずっと住んで歴史をつくっている人たちの重みみたいなのを感じた。部外者の安全論なんてチンケな感傷でしかないのかもしれない。


日本三大松原のひとつ、気比松原に来た。やわらかい色彩を持つ、穏やかでうつくしい海岸だった。ジョギングしている人がいた。対岸の山の向こうには原発や高速増殖炉がある。
そうやって発展してきた街やその歴史、そしてここで作ってきたエネルギーを享受し続けてきたことを否定はできないけれど、やっぱりこの景色とか、にこにこしながら校庭で遊ぶ小学生たちとかそういうのをいっぺんに失いたくないよなあ、と改めて思って、だから原子力に依存したエネルギー政策から脱却していけないのか、といまさら考える。
その日は原子力防災訓練が行われるようだった。


駅までの道を歩くと「飛び出し坊や(少女)」のバリエーションがいくつかあったので写真を撮る。彼らは1973年から滋賀県東近江市ではじめて看板として製作されたので、陸路でつながるこのあたりにも数多く広まったのだろう。しかし飛び出し防止に効果あるのだろうか、といつも思う。


敦賀駅に戻り、帰路につく。そう、ここからがクソ長いのである。12:23敦賀発、北陸本線3465Mで近江塩津まで向かう。琵琶湖は標高が高いため、敦賀-新疋田間はループで高度を稼ぐ。途中の山間の駅からギャルが乗ってきたのにびっくりした。


12:40近江塩津着。駅舎内の小さな茶店でおばちゃん手作りのコロッケを肴に時間をつぶす。


13:05近江塩津発、琵琶湖をうっすら遠目に眺めつつ、13:42米原着。人がどっと降りてきたかと思ったら、どっと新幹線に乗り込んでいったので、思わず荷物に紛れ込んでついていきたくなった。こっちはここからずっと東海道本線をゆくのだ。さよならJR西日本、と心の中でそっと別れを告げた。
14:30米原発-15:02大垣着で関が原越え。大垣では東海道本線が遅れていて20分ほど待たされた。
大垣発15:10で16:37に豊橋着。


わたしはすでにこの豊橋駅構内で食べた壷屋のきしめんのように伸びきっていた。さすが愛知、とくべつに味が濃い。
覚悟を決めて乗り込む。豊橋17:02発-17:38浜松着。トイレすませて雑誌を買って、浜松を18:09に出る。2時間半通勤型ロングシートに乗りっ放しで、買ったNumberは全部読んでしまった。しかも大して特集がおもしろくなくてダブルパンチである。日はとっくに落ちているため車窓はのぞむべくもない。


20:37熱海着。駅前の足湯を探すが、お湯はすでにすべて抜かれていた。ひどく落ち込む。風がなまあたたかい。
ここからJR東日本なので、追加料金を払ってグリーン車に乗るか悩むが最後尾のクロスシートに座れりゃもういいだろ的なヤケクソ気分になり、普通に乗り込む。20:59熱海発、22:37品川着。


おつかれさまでした。

東海道本線を普通列車で行くのはしばらく勘弁だわ、とつくづく思った。帰宅して買い込んだおやつをむしゃむしゃ食べて、横になって眠れる幸せを感じながら死んだように眠った。まさか数時間前には敦賀にいたことなんて、うそみたいだと思いながら。